Dining ・ 20 MAY 2026
ベイルートの食卓、三世代のレシピ
Beirut's Table, Three Generations
変わりゆく街で、変わらない味を守り続ける家族経営食堂の記録。
ベイルート旧市街の裏路地、看板もほとんど出していないその食堂は、昼どきになると常連客で満席になる。厨房に立つのは三代目の女将。母から、祖母から受け継いだレシピノートは、手垢で黒ずんでいた。
名物は「ムサッハン」に似た、じっくりと炒めた玉ねぎとスマックを鶏肉に纏わせた一皿。スパイスの配合は代々ごく僅かに変化しているというが、「変えているというより、手に馴染むように整えているだけ」と女将は言う。この感覚は、日本の老舗の「変わらないために変え続ける」姿勢と重なる。
経済危機、通貨の暴落、爆発事故——この十年、ベイルートは幾度となく試練に見舞われてきた。それでもこの食堂が続いているのは、味を落とさないという一点への頑固なこだわりゆえだろう。
取材の最後、女将はこう語った。「政治は変わる。通貨も変わる。でもこのスープの味が変わったら、それこそが本当の敗北です」。皿の上には、都市の記憶が静かに盛られていた。